サトウ

映画とか音楽を主に。

9 やさしさとは

 人前で涙を流すということ。よく、「人前で涙は流すな、かっこ悪い」と言われた記憶がある。私はその考えに否定はしないしむしろ本当にそうなのではないかと思っている。しかし丁さんは何かつらいことがあるとすぐ泣いていた。私は不思議とその涙を見て情けないなとは思はなかった。彼のつらい経験を目の当たりにしたからだ。自分の果たせなかったものを娘に受け渡すため、ただそれだけに命をかけていた。いつも娘を気遣う優しい男。

 ふと思ったことがある。よく泣く人は優しい人だと思う。優しさゆえにうまくため込んだものを吐き出せず自分でため込んでしまう。そのため込んだものが身の回りのちょっとした出来事や状況の変化という涙を流す機会が訪れたときにあふれてしまうのだ。私の母もそうだ。私が大学受験に受かったとき、部活で良い成績が納められたとき、感動的なドラマを見たとき、決まって母は泣いていた。母にとってうれしいと思えた出来事が今までのつらい時期のストレス発散になっていたのだろう。また良い涙ではなく悲しさが原因で涙を流していることもよくあった。姉が家でどうしようもなく暴れたとき、自分が仕事でうまくいかなかったとき、祖父、祖母が亡くなったとき。本当に私の母はよく泣く。しかし私はそんな母を弱い人間だと思ったことはない。泣きながらも毎日懸命に生きている母の背中は小さいが偉大なのだ。「そんなにもいらない。」と何度も忠告しているのに多く仕送りをしてくる。ちゃんとご飯を食べているか聞いてくる。生活に不自由していないか聞いてくる。うんざりすることもあるがこれも母の優しさなのかな、と、ぼんやりと思ったりもする。どこの家庭の母でも母というものはそういうものなのかもしれないが。

 逆に父親の泣いている姿を一度も見たことがない。私の祖父、祖母、つまり父親にあたる実の親が亡くなったときも一切泣かなかった。私が大学受験に合格しても泣かなかった。涙は流さないが父も優しい人だ。涙を見せないのはきっと男として弱い部分を見せまいと心がけているのであろう。もしかしたら私がいないところで泣いていたこともあったのかもしれない。どちらかといえば丁さんのように「泣く」という行為で優しさを表すのではなく、父のように人前では泣かないが優しい気持ちを持った人間になりたいと思う。

 根本的に、「優しさ」とはなんだろう。私は自分もどちらかといえば優しい性格だと自負している。自分でいうのは気持ち悪いが。だが優しい人間として生きていくのは非常に困難なことだ。「自分が優しい人間」と思い込みながら生活をしていると他人を傷つけないように心がける。そうすると下手なことが言えなくなる。そうすると「お前って無個性だな。」、「いっつも人に合わせて主張がないな」と言われる。そりゃそうだ。お前を傷つけないようにしているのだから内容がなくなるのはあたりまえだろといいたくなる。うまく人に合わせるのだって才能だろと言いたくなる。また相手を傷つけたくないため、いやなことを言われても強く言い返せない。そしてストレスが溜まっていく。そして悩む。周りのやつを傷つけず魅力のある人間になるにはどうしたらいいんだろうと。どうやったら舐められない人間になれるのだろうと。そんな中で今も優しい大人たちは本当に立派な人たちだと思う。私と同じ経験をしたであろうに、いまだにその優しさを内に秘めているのだから。優しい人間として生きるのって本当に難しい。

 私はそんな悩みを抱えている中、ある曲に出会った。今をときめくアイドルグループ、乃木坂46の「あの日僕は咄嗟に嘘をついた」という歌だ。その歌のフレーズにこんなものがある。

 

「優しさを勘違いして、本当の気持ちを捨てた」

 

この歌自体は大切な人に嘘をついてしまったからその時まで時間を戻してやり直せたらいいなという感じなのだが、このフレーズだけはなぜか頭にべったりとこびりついていた。むやみに人のことを思って自分より他人を優先させていると自分の主張は消えてしまうよと言われているような気がした。だが丁さんは自分の気持ちを捨てて、夢を娘に託す優しさを持っていた。これは優しさの勘違いではないのか?本当は自分のために日本語学校に行って自分のやりたいことをしたかったのではないかと疑ってしまう。だが人が書く歌詞など百人百通りなのでこれが正解とは言えない。もしかしたら、私が考える丁さん像のように、本当の気持ちを捨てて人にやさしくすることが正解なのかもしれない。今後もこのフレーズを心にしまって時々考えてみようと思う。

 また話は変わるが、優しさを持っていない人というと語弊があるかもしれないが、自分の考えが一番で他人の影響は絶対受けないなどという頑固な人はどうやってそのモチベーションを保っているのかと疑問を持つ。たまには人の考えに乗ってみてそのまま流されてしまうのも一つの方法だと思う。その先に何か新たな発見があるかもしれない。そう思う理由を私の実体験を出して話す。

 私は音楽が好きだ。特に「ロック」と呼ばれるジャンル。大学に入るまではほぼこのジャンルしか聞いていなかったといっても過言ではない。正直ロック以外は全部ダサいと思っていた。聞かず嫌いでほかのジャンルは全く聞いていなかった。しかし大学に入り一人の友人に出会うと考えは一変する。初めて仲良くなった友人だ。彼を初めて自宅に招待し、各々くつろいでいた。すると私のパソコンから聞いたことのないメロディーが流れる。画面を見てみると頭をコーンロウに仕上げ、不良っぽさがあふれ出るファッションをした若者がリズムに合わせて軽快に言葉を吐き出していた。初めて聞いた見ず知らずの音楽によくわからない興奮を覚えた私は友人にこれは何かと聞いてみると、それはヒップホップと呼ばれるものだった。私の地元にはそんなもの聞いている人は誰一人としていなかった。今までロックという一つの箱に閉じこもっていたのだと実感した。こんな音楽があるんだとひどく感動し、そこからたくさんのヒップホップと出会った。そこから生きるためのヒントを得ることもできたし、音楽とファッションのかかわりについても知ることができた。こんな発見があったため、私は様々なジャンルに浅くではあるが手を出してみた。先ほどうえで書いたようにアイドルの曲を聴いてみたり、おしゃれなジャズを聴いてみたり、聞いているだけで癒しを与えてくれるR&Bを聴いてみたり。どのジャンルも違った魅力を持っていて私に新たな刺激と知恵をくれた。

 この私の経験は一度人の考えに流されたからである。自分の信念を曲げないという姿勢もカッコいいとは思うが流されてついたところに新たな発見があるかもしれない。どちらを選択するのも個人の自由だが私は自分の考え一点張りの人に今の事実を伝えてみたい気もする。しかしこれはもしかしたら、本当にもしかしたらではあるが優しさを持つ人間の特権なのかもしれない。

 しかしこれも私の考えだが流されすぎるのもよくない。だからここの境界が本当に難しい。人の意見ばかりを肯定していると意志を持たない人間へと変わってしまう。自分の考えを主張しつつ、相手の意見を取り入れてみる。本当に難しいことだが滅茶苦茶大切なことだと思う。

 先ほどのように私の体験をだして話をしてみようと思う。友人のおかげでヒップホップにはまった私だが、ある日、「いっつも俺が教えたやつ聴いてんな。」と言われてしまった。仕方ないじゃないか、かっこいいんだもの。と最初は思った。でもふと我に返ってみる。今までカッコいいと思っていたロックはもうかっこよくないのか?そんなはずはない。なぜならヒップホップと出会うまで私の人生を支えてくれたのは紛れもなくロックというジャンルなのだから。しかしその時の熱はやはりヒップホップにあった。動画サイトでヒップホップを聴くたびに、心の中で何かが引っかかっている。「自分はやっぱり他人に影響されやすい。自分の意思がないのではないか。」と自己嫌悪してしまう。音楽で自分を癒したり、鼓舞させたいのに全く逆効果である。心の中は大忙しだ。一方ではかっこいいヒップホップを聴きたいのに、一方ではその行為は人の模倣だという考えがどうしてもチラつく。自分の信念を持ちつつ、相手からいいところを吸収するのは本当に難しいことなんだとこの文章を書いていて再び実感した。少しでもこれがうまくできるようになりたい。

 そしてまた全く話は変わるが、「さとにきたらええやん」を鑑賞してきた。

 舞台は釜ヶ崎。日雇い労働者であふれかえる、決して治安のよいとは言えない町だ。そこに「こどものさと」と呼ばれる一つの施設がある。そこで巻き起こる人間ストーリーであった。わたしが一番強く覚えているのはまさきの母である。駄々をこねてさとに泊まりたいと一点張りのまさきに折れ、一人家に帰る彼女。一瞬さとの方に目線を向けたときに画面に映った彼女の眼は寂しさにあふれていた。子供の意見に折れて宿泊させたのも彼女なりのやさしさなのかもしれない。「家よりさとを好まれるのは母としてやっぱ悔しい。」彼女はそうこぼした。自分は子供を持ったことがないのでその感情はよくわからなかった。でもきっとその通りなんだと理屈抜きでそう思った。後にわかったことだが彼女自身幼少期に父親に暴力を受けていたという。たぶんまさきにはそんな思いをしてほしくないため自分を苦しめてしまうのだろう。まさきの駄々を受け入れたり、決してしつけをするときには手を出さなかったり。彼女は優しさという自分自身を苦しめる性格を持って懸命に生きているのだ。優しい人は強い人なのだ。しかし、映画のフレーズを使っていうと、優しい人は心がしんどくなる。心がしんどくなるのは大人も子供も関係ない。つらいと涙が出るのだ。そんな心がしんどい人を助けるのがこどものさとなのだ。「困ったときはいつでもきて!」、デメキンの言葉が自分に言われているようで少し心が救われた。この映画で、上で出た疑問が少し解決されたような気がする。優しい人、つまり人にも物にもあたれずため込んでしまう人は涙を流して自己解決するよりも周りの人間に相談することが一番の良い方法なのではないか。周りを見渡せば支えてくれる人は案外いくらでもいるものだ。そして、くじけそうになった時、自分一人では解決できずに心がいっぱいになったとき、別の言葉でいうと、「心とふところが寒いとき」、胸を張って生きなければ、そう思った。人との助け合い、人としての正しい生き方をこの映画で学んだような気がする。

 結局、「優しさ」というものは何なのか、いいものなのかはたまた悪いものなのか、今のところはっきりとよくわかっていない。「優しさ」は時に自分を苦しめるものになってしまうため、優しさとうまく付き合っていくのは困難なのだ。しかし、何とも言えないし、理由もないが優しさをもっていきていれば多少はいい人間になれる気がする。優しい人は強い人なのだから。